嵐続きの2月と打って変わって、3月に入ってからロンドンは日が長くなり、ポカポカ小春日和が続いています。
12月から2月にかけては日本からイギリスに渡る準備でバタバタしていたのですが、実は、その傍らで出国直前に母方の祖父が亡くなったり、渡英後すぐ再び流産してしまうという個人的に少し辛い時期を過ごしていました。
(以前別の記事でも書きましたが、昨年の5月には、私の流産手術の当日に父方の祖母が他界しました。)
季節の変わり目だからでしょうか。
道を歩いていて、花を咲かせようと日に日に色付く木々を眺めながら、ようやくまた前に進もうという気持ちになり、なんとなく自分の思いを吐き出したくなったので、ちょっとつぶやかせて下さい。
ここからは祖父とのちょっとした思い出話です。
祖父は2022年の1月に88歳で心不全のためこの世を去りました。
晩年は透析や手術の繰り返しでボロボロの身体になりながらも、新しいことを学ぶことを止めず、力強く豪快に人生を生き抜いた祖父でした。
身体が丈夫だった頃は、毎晩ものすごい量のお酒を飲み、やんちゃでいたずら好き。(祖母の顔写真の切り抜き画像を水着のお姉さんのイラスト画像に張り付けてリビングのデジタルフォトアルバムに流していたり・・)
学校を卒業してからは海上通信士として船で世界中の海を航海していた祖父。
勤務中、瀬戸内海のとある島に停泊している時にお酒を飲み過ぎて体調不良に陥り、入院を強いられたのですが、そこで勤務していたのが祖母でした。
病院で出会ってすぐに祖母を気に入った祖父は、体調が回復して島を離れた後も祖母のことが忘れられず、海の上から手紙を送り続け、祖母は祖父の停泊先で到着を待ちながら関係を継続し、結婚に至ったそうです。
祖父は酔っぱらうと面倒くさいので、私が幼い頃はそんな祖父が煙たかったりもしましたが、祖父が大酒飲みだったからこそ今の私が存在していると思うと、それも無下に否定はできないような。
祖父は幼い頃、保険関係の職についていた曾祖父の仕事の関係で、戦時中は朝鮮(現在の韓国)で幼少期を過ごしていました。
当時の出来事は辛くあまり思い出したくないようで、私に話してくれることはありませんでしたが、祖父のお姉さんである大叔母が残した書籍には戦時中の過酷な状況や、敗戦とともに命からがら日本に引き揚げてきたことが書かれていました。
そんな経験をしているからか、手先が器用なことも相まって、壊れたものはなんでも自分で修理。
平日はがっつり働いて、余暇は購入した船に乗って釣りなどの趣味没頭しながら好きなだけ美食美酒を愉しむ。
常に新しい技術に関心を寄せ、パソコン・携帯電話などが登場すると購入して自室にこもり使い方を熱心に研究していました。
(でもLINEのテレビ電話は最後まで上手に使いこなすことができず、動画をオンにすると終始祖父の薄い頭皮だけが映り続けていました・・)
一方で、非常に負けず嫌いな性格で、祖母が好きなイケメン俳優や野球のスター選手がテレビに映っていると面白くないらしく、テレビを無言でパチンと消してしまう一面も。
そんな祖父は昔からパンが好きで、朝食は決まってトーストとコーヒー。
75歳を過ぎた頃から腎臓を悪くし、定期的に透析に通わなければならなくなった祖父は、家の中で過ごす時間が多くなったせいか、ホームベーカリーを購入して自分でパンを焼くようになりました。
と、ここでも研究熱心な性格が表れ、美味しいパンの作り方やフレーバーの組み合わせをノートに書き留めては試行錯誤。
私が「遊びに行くからね~」と連絡すると焼き立てパンを用意して、待っていてくれました。
そんな祖父の研究の賜であるパンを”美味しい美味しい”と食べる母や私の様子を眺め、静かに笑みを浮かべている祖父。
余ったパンは東京に戻る私にお土産として持たせてくれたものでした。
そして、東京の家に帰って一人でこのパンをもぐもぐ食べながら、”どんな想いで作ってくれたのかな”とふと思いを馳せてみると、なんだか急に恋しくなったり。
そして2022年の年明けすぐ。
それまで母や叔父の介護を受けながら治療を繰り返し、なんとか元気に過ごしていた祖父でしたが、突然入院をしたという知らせがはいりました。
当初、命に別条はないとのことでしたが、容態は急激に悪化。
私はその頃ビザの手続きや引っ越し準備で忙しくしていましたが、なんとか最終に近い新幹線に飛び乗りその日のうちに東京から宮城へと向かいました。
病院に到着したのは夜22時過ぎ。その頃ちょうどコロナウィルスの感染が全国的に再拡大していたので、東京からきた私は、マスクだけでなくフェイスシールドもするよう看護師さんから指示を受け、「病院のルールなので、ごめんなさいね・・」と言われながら他の人よりも厳重装備で祖父と対面しました。
病室に入って、そこにあったのは人工呼吸器に繋がれ、焦点が定まらずどこを見ているのか、意識があるのかどうかもわからない祖父の姿。
面会できる時間は約5分。色々話かけてみましたが、反応はなく。
それまで祖父は私に直接言うことはなかったものの、曾孫をとても楽しみにしていたことを私は知っていたので、「曾孫に会わせてあげられなくてごめんね」と色々と話しかける中で泣きながら言うと、目がほんの微かにこちらに動きました。
きっと祖父のことなので「大丈夫だから。気にすんな。」と言いたかったのかなと想像していますが、祖父の声を再び聞けることはありませんでした。
そして面会時間は終了。
「また来るね」と声をかけて病室を後にしましたが、病院を出てから5分も経たないうちに病院から「すぐに戻ってきてほしい」という連絡がはいりました。
祖父が息を引き取ったとのことでした。
その日祖父は、危篤状態になりながらも一日中、母や叔父から「〇〇(私の名前)が夜会いに来るからね」と言い聞かされていたそうなので、最後に一目会うまでは死ねないなと、苦しみに耐えながら必死に私を待っていてくれたようにも思えました。
そして、面会が終了し、「みんなに会えたし、もう逝こうかな」と思ったのでしょうか。
ここ数年はコロナの関係で、病院で危篤を迎えても最期を看取られずに亡くなってしまう患者さんが多いらしく、担当して下さっていた看護師さんも「最期にご家族に会ってもらうことができて本当に良かったです」と涙ながらに言われました。
東京から来た私は、病棟への入室を許可するか院内で議論がされたようですが、看護師さんがなんとか上の方に説得して下さったようでした。
看護師さんたちは、病院のルールと家族の想いとの間に挟まれ、日々葛藤に苛まれている様子が見受けられました。
患者や親族一人一人に寄り添いながら、昼夜問わず働き続けている医療関係の皆様には尊敬と感謝しかありません。
本当にありがとうございます。
翻って世の中を見渡してみると、コロナウイルス、ウクライナとロシアの戦争、そして大地震といったことが次々と発生。
そんな中、何事もなく平和に生きられている自分の幸運に感謝しつつも、世の中には大変な思いをしている人が大勢いるのに・・と、普通でいることや自分の持つ悩みの小ささ、自分の非力さに負い目を感じてしまったり。
何をしていても、色んな感情が忙しくぐるぐると頭をめぐっています。
特に、ウクライナ危機に関しては、祖父が生きていたら祖父は何を思うのでしょうか。
過去の悲惨な出来事は決して忘れてはならず、歴史から学び、次の世代につなげていかなければならない。
いつ何が起こるかわからない激動の時代の中で、個人レベルでは解決できない社会事象に翻弄されながらも、自分はどんな行動をとって人生をどう生き抜いていくか。
その中で幸せに生きるとはどういうことなのか。
幸せとは何か、というのは人類の永遠のテーマでもあります。
やりたいこと、達成したい夢、思い描く未来・・長いようで短い人生の中で手に入れたいものは考え始めると枚挙に暇がありませんが、
私個人の考えとして、最もシンプルな形に削ぎ落して整理した結果、1つ挙げるとすれば・・・
家族や友人など、私が大切に思っている人達の最期に「あなたがいてくれてよかった」と思ってもらうことができたら、まずは私の人生も幸せに歩めていると言えるのかもしれない。
最近、散歩をしながらそんなことを考えています。
平和な世界が一刻も早く訪れますように。
地震等により被害に遭われた皆さまにおかれましては、心よりお見舞いを申し上げます。
皆さまの安全を願っております。
胸キュンストーリーでした
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こちらこそ、読んで下さった上にコメントを残していただきありがとうございます。
とても嬉しいです。